その14 離人体験について(6)

 

 天竜川流域(長野県下伊那郡の山中)で自給自足生活を営む夫妻を訪れたこと

 

身体が爆発し四散する体感を伴った夢について、その状況を書いておくことが必要であるように思うのでやや長くなるが書くことにした。

 

このお宅を訪ねた話は以前ツイートしたことがある(この文章の最後にTwillogのリンクを貼っておく。天竜川や山中の風景、夫妻が二人で長年かけて建てた家屋の写真もある)。ツイートしている内容が正しければ離人症を発症し数ヵ月後に訪れたことになる。

 

当時母とはほとんどまともな会話がなかったのだが、何の拍子にか母の旧い知人に山中で自給自足の生活をしている人がいることを知った。三千代さんという女性であった。三千代さんは自分が小学生の頃に一度、一人で当時の自宅を訪れてきたことがあるそうだ(自分は会っていない)。いかにも山中生活者のようないでたちで訪ねて来、荒縄をベルトの代わりにしていたという。それまで母から聞いたことのない話だった。

 

当時の自分には消費社会から距離を置きたいという願望があり(学生時代にそのような自覚はなく、どうも離人症発症の少し前あたりからそのような思いを持ち始めたように思うのだが)、自分のように廃人同然となってしまった人間、もしくは現代の社会とは別の価値観を持った人間でも安心して暮らせる場所もしくは共同体を希求する気持ちがあった(そのことから当時のオウム真理教のように社会に背を向け -今となっては必ずしも構成員の全てがそうではなかったと言わねばならないが- 共同生活する団体には淡い期待を抱いていたのであった)。このことについては後に書く。

 

今思えば、この時期にそのような知り合いがいることを知らされたのも不思議な巡りあわせであった。自分は最後の望みに賭けるようにして仕事の帰りに新宿の紀伊国屋書店の地下に立ち寄り、その夫妻が暮らすという下伊那郡白地図を買い求めた(当然離人症状は継続している)。夫妻の住処には電話もないということであったので、予告もなく突然訪ねるより他に手段はないようだった。

 

詳細は下のTwillogに譲るが、飯田線為栗(してぐり)駅(単線の無人駅)に到着し白地図の山中に二軒ほど書き込まれている民家らしき場所を目指し中途で方角に不安を感じ引き返し、しばらく途方に暮れていたところ偶然為栗駅の線路を越えた対面にただ一軒だけある民家のご家族が帰宅したのであった。事情を話すと三千代さんとは面識があり、彼女の家には数週間前に電話が入ったとのことで(今思えばこれも偶然である)、連絡をして下さったのである。

 

為栗駅は確かに三千代さんの住処の最寄で間違いではなかったが(自分が目指した方角とは全く違う場所であった)日も暮れかけており、迎えに来てもらうことは困難なので一つ手前の平岡駅へ戻り駅近くの旅館に泊まり、次の朝再び為栗駅で待っていると美千代さんが背中に荷物を背負った姿で現われた。旧い友人の息子とはいえ突然面識のない若者が理由もはっきりと告げぬまま訪れて来、さぞかし面食らったことと思う。

 

かなり後に母から聞いた話では、三千代さんは小笠原出身で家族と共に母の出身である下北沢の実家(豆腐屋であった)の向かいのアパートに越して来ており、母の兄姉達とも仲が良かったようだ。特に母の兄(つまり私の伯父 -先日亡くなった-)は三千代さんに好意を持っていたのではないかという。

 

(確かに、自分が三千代さんの住処に案内された後、さまざまな話をする中で「ヤスタカさん(伯父の名)は変わらずお元気なのかしら」と訊かれるということがあった。さらに先日、亡くなった伯父の遺品から伯父の撮った -伯父は若い頃日大の写真学科に在籍していた- 三千代さんの写真が出てきたりしないだろうか、と戯れに母に訊くと驚いたことに、母が持っているとのことだった。ただし探さねば出てこないらしい)。

 

三千代さんは移住した東京で年齢の離れた工場経営者の男性と知り合い(男性には妻子があったが別れ)、下伊那郡の山中で二人きりの自給自足生活を始めることになる。男性つまりご主人の方に当時の国内外のオルタナティヴな潮流(ヒッピームーブメントや自然農法、東洋医学など)の影響があるのは確かなように自分には見受けられたが、年齢を考えてもかなり先鋭的な生き方を選択したものだと思う。

 

twilog.org

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(推敲なし・続く)