その19 離人体験について(11)

 

●当時遭遇したいくつかの偶然について

 

思い返せば、当時いくつかの偶然に遭遇し、そのつど助けられてきた。現在の生業との接点が出来たのもそのおかげである。

 

 まず一つ目の偶然。

離人症発症後しばらくしてから受け始めたカウンセリングの面接場所が当時の職場から程近い場所であった

 

先述のように知人づてに精神分析を申し込んだのだが、その精神分析家の勤務する大学が偶然にも自分の勤務先の最寄の隣駅にあり、その先生の率いる機関が面接用にと借りているアパートの一室が自分の勤務先から稽古場へ向かう際にいつも通る道路に面した場所にあるのだった。職場から徒歩10数分で辿り着ける場所であった。当時は特に不思議に思わなかったのだが今思えば珍しい偶然である(自分の職場の所在地を教えていたわけではないので、配慮してくれたということではない)。

  

ついでに当時受けたカウンセリングについてもう少し書いておこうと思う。当初は精神分析を希望したがまずはカウンセリングからとの流れになったことはすでに書いた。何度も書いて来たように当時は離人感が強く、現実よりも睡眠時の夢の方にリアリティがあったためにカウンセリングの詳細についてはよく覚えていないというのが実状だ。直接離人症状そのものの治癒には繋がらないとしても、異常な状態にあってそれを包み隠さず話せる場所があったということは何よりの支えであったと、今になって改めて思う。料金滞納を許したことで自分の担当を外されてしまったが(その後カウンセラーの師にあたる年嵩の女性による精神分析が開始されたが上手く進まなかった。このことについては追記するかも知れない)、当時のカウンセラーの女性には感謝したい。

 

 

○友人Oとの再会

 

離人症発症時に働いていたランドスケープ設計事務所との契約が切れた後、求人誌で見つけた町田の測量会社でアルバイトを始めた。主観的にはとても働いていられるような状況ではなかったのだが、これも先述のように当時一緒に住んでいた両親との関係は最悪であり、無職で実家にいることが許されない状況であった(また当時は現在のようにさまざまな理由から困窮したり働けない人を支援する機関などもなかったように思う)。製図などの内勤を希望したが当初は現場の助手に回され、社風や働いてる人々の気風が全く合わないため3日と経たずに辞めたくなったが既に他の職を探す気力も失せていた。

 

途中からほぼ内勤専属になったが全体の年齢層が若く、競馬の話題が主であるという職場は離人症であったことを差し引いてもかなり辛いものがあった(良かった記憶などほとんどないのだが入社直後に震災後の大阪支部へ二週間ほど飛ばされたことを含め -これなども離人症の真っ只中によく行ったものだと思うが-、何故か懐かしく思い出されることがあるのは不思議だ。再び勤めることが出来るかと問われればまっぴらなのだが)。

 

3年程はそこで働いたのだろうか、ついに耐えられなくなりそこを辞め、しばらくは派遣会社を通して単発の現場仕事などに出ていた。ある日町田のCD店で茫然とCDを眺めていると背後から脇腹に拳を力強く叩きつけてくる者があった。振り返るとそこには中学高校と友人であったOの姿があった。最後に会ったのは確か大学時代に大学祭へ来てくれた時以来であったが、自分が離人症を発症して間もなく電話をくれたことがあった。

 

その時の電話の内容は、中学時代に共通の友人であったTが最寄駅から小田急線に飛び込み死亡したという報告であった。少なくとも自分の知る中学時代のTはとても自分で命を絶つようなタイプではないように思われたが、Oによれば高校を卒業後辺りから何かと悩みがちだったらしい。そしてO自身も数年前からパニック症候群様の症状を発症しており、精神科に通うようになっていた。自分もまさに精神的な不調の只中であることを伝えると(これも一種の共時性ではないだろうか)、辛いだろうからTの葬式には無理に来なくともいいよと気遣ってくれたのだった。その後互いに連絡を取らずにいたのだが、偶然自分を見かけて声をかけてくれたのだ。

 

聞けばそれまで働いていた設備点検業の親方が失踪し、やむなく仕事を引き継いでいるのだと言う。当時Oは自分の野球チームを持っており、チームの若いメンバーをアルバイトで使っているとのことだった。自分がちょうど無職であることを伝えると、ならばアルバイトで使ってやるという話になったのであった。まるで地獄で一本の蜘蛛の糸を見つけたようであった。その時の安堵感を今でも思い出す。その後数年間、友人Oの後について様々な現場を訪れることになる。

 

(推敲なし・続く)