その18 離人体験について(10)

 

「法悦的状態」について(続き)

 

この状態を無条件に心地よい体験であったと回想出来ないのは、寛いだ心境と同時に離人感や体感異常がいまだ続いていたことの他に、金銭に関わる問題が露呈しはじめたからだ。

 

この期間は職を失っていたと先に書いたが、それをきっかけにして、週一回継続して通っていたカウンセリング(先に書いたように精神分析を希望した結果、まずはカウンセリングからはじめましょうという話になった)の料金を滞納し始めたのであった。同時にまだ通っていたモダンバレエの稽古場のレッスン料も滞納しがちになった。心身が寛ぎ始めたことと同時に社会的な契約の観念まで緩んでしまったようであった(これについて、当時のカウンセラーには「アルコール依存症者の傾向に似ている」とコメントされた)。

 

後者では当時稽古場に男手が自分ひとりだけであったこともあり、裏方的な仕事も手伝っていたので当初は何となく許容されてしまっていたのだった(どちらも滞納分は後に全額支払った)。当時のカウンセラーは女性であったが、カウンセリング料金の滞納を許したことで自分の担当を外されてしまうなどの出来事があった。

 

 

               ★

 

この時期に再び異常な体感を伴う葛藤の体験をした。

 

現代の消費社会を否定し、ホームレスとして生きるか、社会的な自己実現の道を目指すのか、意識内で二つの価値観の葛藤が起こり(現状ではどちらも具体的行動は取れないにも関わらず)、主に頭部の左右で互いの観念が葛藤を始めたのである。まるで左脳の思考と右脳の思考が争いを始めたかのようであり、実際に強い何らかのエネルギー塊(適切な表現がない。気のようなものか)が反発し合っているような体感があり、同時に恐怖感も沸き起こってきた。左右陣営のエネルギー塊の反発とそれに伴った恐怖が最大になり、ついに気が違うのかと思った瞬間、双方の力が中央でぶつかり、するりと鳩尾の辺りに落ちていったのである(この瞬間鳩尾の辺りには鋭い痛みが走り、光のようなものが見えた気がする。)。その瞬間、これまで体感されていたエネルギー塊がまるで酒に酔い嘔吐した後ででもあるかのようにさっぱりと無くなってしまったのであった。それでも身体が四散する夢の場合と同様、この異常体験への恐怖心は残った。

 

 

               ★

   

 

時期はそれぞれ異なるがその他にも通常時には見られない意識状態を体験したので記録しておく。どれも一度だけの体験であり現在は同様の体験はない。解釈は読んで下さった方それぞれに任せるしかない。

 

 

●会話している相手が次に何を話すかが分かる

 

これはまだ設計事務所で働いていた時期に、事務所のメンバー(男性社員二人と女性社員が一人、自分はアルバイトであった。後に男性社員がさらに一人入社する。全員ほぼ同年代であり社内の雰囲気はよかった)と昼休みに食事の為に入った店で起きた。皆で談笑していると(自分は離人症状が続いていたが職場では平常を装っていたのである)次に誰かが話そうとするその直前に、あらかじめその内容が分かるのであった。この時は特に驚きもせず、ただそういうものとして受け入れていた。

 

●植物の生命を知覚する体験

 

これも設計事務所での勤務時に起きた。この事務所は所長の邸宅の一階部分であったがトイレには所長の奥さんによって生けられた花が飾られているのが常であった。その日はポピーの花が生けてあった。トイレの扉を開き、ポピーの紅色の花弁を目にした瞬間、驚愕ししばらく目が離せなくなってしまった。例えばだが屋内のトイレの扉を開いた瞬間、そこにいるとは予期しない猫などの動物がいた場合に驚いて体が竦むような経験があると思うが、それと同じことが起きたのである。つまりそこに生けてあるポピーが意識を持ち体温を持つ動物であるかのように知覚されたのであった。

 

私たちが日常的に植物に接する場合、言うまでもないことだが動物と同じようには知覚しておらず、(物語や比喩とは別に)実際に意識があると知覚することはまずないであろう。

 

 

相対性理論を理解した

 

これも設計事務所で起きた。思うに設計事務所に勤務していた時期は発症から間もない時期であり、このような変性意識状態が頻発した時期でもあったのだろうと思う。相対性理論を通常の理性で理解したというよりも、アインシュタインがどのような視覚モデルにおいて相対性理論を理解していたかを理解できたと表現した方が正確かもしれない。その視覚像がイメージで現われ、相対性理論を「手に取るように」理解できたと感じられたが、今となっては記憶がほとんどなく、どのような視覚モデルだったかも思い出せない。

 

 

●同居する親を人格的存在ではなく「生命」として知覚する

 

これはいつ頃の時期だったかよく思い出せない。通常の意識状態において人は家の隣室に人がいるとあらかじめ知っている場合、その気配を意識し、同時にその人物が母であればそのことをも同時に了解して気配を知覚しているが(この辺り表現が難しい。通常であればわざわざ「意識化」しない領域の話であるから)、この時は隣室にいる気配が母であるというよりも、人格をいわば捨象した「生命」であると知覚されたのだった。ちょうど先述のポピーの場合と知覚の質が似ていたように思う。

 

これが幻覚ではないと仮定するのであれば(もとよりそこにない何かが「見えた」わけではないのだが)、人間には人格やポピーなど、名付けられた存在の層のさらに基層にある「生命そのもの」を知覚する能力があるのではないかと思う。さらに言えばこの知覚は意識がそう知覚する、思う、というよりも身体が知覚・感覚していると表現した方が適切であるような体験であった。意識がする通常の知覚ではなく身体感覚(触覚や運動能力とは異なった位相だが)であると表現した方が体験的にしっくり来るのである。

 

(推敲なし・続く)