その20 離人体験について(12)

 

●だめ連・早稲田あかね・障害者介助との出会い 

 

友人Oの仕事の助手を務めることは、気心の知れた仲であることもあり楽しい時もあり、辛いこともあった。Oも二十代で発症した不調をいまだ引きずりながら仕事を継続していたのだが、自分もまた同様であり今思えばOの体調や精神状態を気遣ってやれなかったことに後悔がある。

 

しかしこの頃には離人症発症直後のような極端な体感異常や観念的葛藤は鳴りを潜め始め(頭部の圧迫感や腰部の違和感は残っていたが)、しばしば陥る強い落ち込みや自己嫌悪、軽い鬱や無気力などが主な辛さであった。つまり離人感が自分自身に対する不全感へと変化しつつあったようだ(離人症以前の自分が自分であるという感覚や現実感を取り戻したわけではなかったが、今考えるとこの常識的に理解は可能である不全感が自己の自覚の代替になっていたように思う。異常な体感や見知らぬ惑星へ拉致されたかのような恐怖よりもましではあった)。また自分が目指していた物事を諦めねばならなかったことへの絶望感などもあったように思う。

 

 

そんな日々を過ごしていた頃、ある夜に自室のTVで報道番組を観ていたところある人々が特集されていた。早稲田大学の卒業生が立ち上げた「だめ連」という集団で、この経済至上主義社会にあっていかに働かないで生きるかを模索実践している集団ということであった。男性数人が一軒屋を借りシェアしている姿も映っていた。「だめ連」メンバーやその界隈の人々は早稲田大学付近の「あかね」という小さな飲み屋をたまり場にしているとのことであった。

 

自分が通っていた大学に特有であったノンシャランな雰囲気に通ずるものを感じ、「あかね」に行ってみることにした。行ってみるとなるほどこれは想像していた通りの場所であった。二度目に訪れた時に、隣のテーブルからある会話が聞こえてきた。「(「だめ連」の代表の一人である)Pの本名は実は塚原というんだけど…」

 

その時に閃くものがあった。Pさんの顔はTVの特集で観ておりその時から何か気になるものがあり、その正体を見極めかねていたのだが、この言葉を聞いてそれが晴れたのだ。自分は発言の主に向かってこう話しかけていた。

 

「ひょっとしてPさんは昔、妹さんを事故で亡くしていないですか」

 

●塚原設ちゃんのこと

 

TVでPさんの顔を観た時以来の不思議な既視感の正体が判った。Pさんは自分の学生時代の同級生であり同じサークルで同じくテナーサックスパートを務めていた塚原設ちゃん(ここは実名で書き残しておきたい)の兄であり、面影に似ているところがあった。設ちゃんは学生時代に障害者運動や反原発などいくつかの社会運動にも関わっており、大学を卒業した次の年に金沢の海岸で障害者と泳ぐというイベントに参加し、その海で溺れている子供を救おうとし命を落としてしまったのであった(子供は助かったらしい)。実はPさんとは自分の出身大学で開かれた設ちゃんのお別れ会でも一度顔を合わせていたのだった。

 

当時の社会は環境問題や原発の問題、そして障害者福祉への意識が現在に比べてはるかに低く、興味を持つ人も希であり(自分も興味がなかった)、運動などに関わる学生は他の学生から敬遠されがちな風潮があった(この辺りは現在も変わらないのかも知れない)。そんな時代に、設ちゃんは特有の天然さとでもいおうか、ちょっと頼りなげでもあり、柔和な印象で皆から慕われていたのであった。しかしいつか本人に聞いた話によれば(記憶に誤りがなければ)高校時代にはテニスサークルの主将であったり水泳が得意であったりしたということで、また他大学の社会運動系のサークルとも交流があったので自分の知らない顔を持っていたのに違いない。少なくとも自分にはスポーツが得意であるとはとても見えていなかったのだった。

 

実は設ちゃんとは二度ほど下北沢でデートしたことがある。二度目の時には設ちゃんは既に他大学サークルとの交流が忙しく、こちらとの交流が希薄になり始めていた頃であり、設ちゃんの方から誘いがあった。今思えば、当時の活動や将来の事などについて悩んでいたのだと思う。タカハシ君(筆者の実名)はうちの兄(つまりPさんなのだが)に似ている、などと言われたこともあった。

 

 

話を「あかね」に戻す。Pさんはまさに設ちゃんの兄であり、その日は不在であったのでPさんのいる曜日に再び「あかね」を訪れてみた。Pさんと話すうちに毎年夏には妹の供養も兼ねて金沢の障害者と一緒に泳ぐイベントに参加しているがタカハシさんも今年一緒に行きませんか、とお誘いがあり、行くことになったのである。

 

つまりはこのイベントに参加したことと、また別の日に「あかね」の別の方からの「北区で新しく障害者の自立生活運動系の事業所を立ち上げる人たちがいるのだけどタカハシさん行ってみませんか」とのお誘いがきっかけとなり、現在も生業として続けている「障害者介助」に携わることになったのであった。不思議な縁だが期せずして現代社会に主流である新たな商品や必ずしも必要ではない情報を売る職種ではない生業に出会ったのであった。そしてこれはひょっとして設ちゃんの意志を継ぐことであるかも知れない。興味深いことだが、学生時代の自分にとって「障害者福祉」などはまず従事しないであろう職業であった。人の良さそうな男女が和気藹々と従事している姿に嫌悪感すらあり、まさか後に自分が従事することになろうとは夢にも思っていなかったのである。

 

(未推敲・続く)

 

その19 離人体験について(11)

 

●当時遭遇したいくつかの偶然について

 

思い返せば、当時いくつかの偶然に遭遇し、そのつど助けられてきた。現在の生業との接点が出来たのもそのおかげである。

 

 まず一つ目の偶然。

離人症発症後しばらくしてから受け始めたカウンセリングの面接場所が当時の職場から程近い場所であった

 

先述のように知人づてに精神分析を申し込んだのだが、その精神分析家の勤務する大学が偶然にも自分の勤務先の最寄の隣駅にあり、その先生の率いる機関が面接用にと借りているアパートの一室が自分の勤務先から稽古場へ向かう際にいつも通る道路に面した場所にあるのだった。職場から徒歩10数分で辿り着ける場所であった。当時は特に不思議に思わなかったのだが今思えば珍しい偶然である(自分の職場の所在地を教えていたわけではないので、配慮してくれたということではない)。

  

ついでに当時受けたカウンセリングについてもう少し書いておこうと思う。当初は精神分析を希望したがまずはカウンセリングからとの流れになったことはすでに書いた。何度も書いて来たように当時は離人感が強く、現実よりも睡眠時の夢の方にリアリティがあったためにカウンセリングの詳細についてはよく覚えていないというのが実状だ。直接離人症状そのものの治癒には繋がらないとしても、異常な状態にあってそれを包み隠さず話せる場所があったということは何よりの支えであったと、今になって改めて思う。料金滞納を許したことで自分の担当を外されてしまったが(その後カウンセラーの師にあたる年嵩の女性による精神分析が開始されたが上手く進まなかった。このことについては追記するかも知れない)、当時のカウンセラーの女性には感謝したい。

 

 

○友人Oとの再会

 

離人症発症時に働いていたランドスケープ設計事務所との契約が切れた後、求人誌で見つけた町田の測量会社でアルバイトを始めた。主観的にはとても働いていられるような状況ではなかったのだが、これも先述のように当時一緒に住んでいた両親との関係は最悪であり、無職で実家にいることが許されない状況であった(また当時は現在のようにさまざまな理由から困窮したり働けない人を支援する機関などもなかったように思う)。製図などの内勤を希望したが当初は現場の助手に回され、社風や働いてる人々の気風が全く合わないため3日と経たずに辞めたくなったが既に他の職を探す気力も失せていた。

 

途中からほぼ内勤専属になったが全体の年齢層が若く、競馬の話題が主であるという職場は離人症であったことを差し引いてもかなり辛いものがあった(良かった記憶などほとんどないのだが入社直後に震災後の大阪支部へ二週間ほど飛ばされたことを含め -これなども離人症の真っ只中によく行ったものだと思うが-、何故か懐かしく思い出されることがあるのは不思議だ。再び勤めることが出来るかと問われればまっぴらなのだが)。

 

3年程はそこで働いたのだろうか、ついに耐えられなくなりそこを辞め、しばらくは派遣会社を通して単発の現場仕事などに出ていた。ある日町田のCD店で茫然とCDを眺めていると背後から脇腹に拳を力強く叩きつけてくる者があった。振り返るとそこには中学高校と友人であったOの姿があった。最後に会ったのは確か大学時代に大学祭へ来てくれた時以来であったが、自分が離人症を発症して間もなく電話をくれたことがあった。

 

その時の電話の内容は、中学時代に共通の友人であったTが最寄駅から小田急線に飛び込み死亡したという報告であった。少なくとも自分の知る中学時代のTはとても自分で命を絶つようなタイプではないように思われたが、Oによれば高校を卒業後辺りから何かと悩みがちだったらしい。そしてO自身も数年前からパニック症候群様の症状を発症しており、精神科に通うようになっていた。自分もまさに精神的な不調の只中であることを伝えると(これも一種の共時性ではないだろうか)、辛いだろうからTの葬式には無理に来なくともいいよと気遣ってくれたのだった。その後互いに連絡を取らずにいたのだが、偶然自分を見かけて声をかけてくれたのだ。

 

聞けばそれまで働いていた設備点検業の親方が失踪し、やむなく仕事を引き継いでいるのだと言う。当時Oは自分の野球チームを持っており、チームの若いメンバーをアルバイトで使っているとのことだった。自分がちょうど無職であることを伝えると、ならばアルバイトで使ってやるという話になったのであった。まるで地獄で一本の蜘蛛の糸を見つけたようであった。その時の安堵感を今でも思い出す。その後数年間、友人Oの後について様々な現場を訪れることになる。

 

(推敲なし・続く)

 

 

その18 離人体験について(10)

 

「法悦的状態」について(続き)

 

この状態を無条件に心地よい体験であったと回想出来ないのは、寛いだ心境と同時に離人感や体感異常がいまだ続いていたことの他に、金銭に関わる問題が露呈しはじめたからだ。

 

この期間は職を失っていたと先に書いたが、それをきっかけにして、週一回継続して通っていたカウンセリング(先に書いたように精神分析を希望した結果、まずはカウンセリングからはじめましょうという話になった)の料金を滞納し始めたのであった。同時にまだ通っていたモダンバレエの稽古場のレッスン料も滞納しがちになった。心身が寛ぎ始めたことと同時に社会的な契約の観念まで緩んでしまったようであった(これについて、当時のカウンセラーには「アルコール依存症者の傾向に似ている」とコメントされた)。

 

後者では当時稽古場に男手が自分ひとりだけであったこともあり、裏方的な仕事も手伝っていたので当初は何となく許容されてしまっていたのだった(どちらも滞納分は後に全額支払った)。当時のカウンセラーは女性であったが、カウンセリング料金の滞納を許したことで自分の担当を外されてしまうなどの出来事があった。

 

 

               ★

 

この時期に再び異常な体感を伴う葛藤の体験をした。

 

現代の消費社会を否定し、ホームレスとして生きるか、社会的な自己実現の道を目指すのか、意識内で二つの価値観の葛藤が起こり(現状ではどちらも具体的行動は取れないにも関わらず)、主に頭部の左右で互いの観念が葛藤を始めたのである。まるで左脳の思考と右脳の思考が争いを始めたかのようであり、実際に強い何らかのエネルギー塊(適切な表現がない。気のようなものか)が反発し合っているような体感があり、同時に恐怖感も沸き起こってきた。左右陣営のエネルギー塊の反発とそれに伴った恐怖が最大になり、ついに気が違うのかと思った瞬間、双方の力が中央でぶつかり、するりと鳩尾の辺りに落ちていったのである(この瞬間鳩尾の辺りには鋭い痛みが走り、光のようなものが見えた気がする。)。その瞬間、これまで体感されていたエネルギー塊がまるで酒に酔い嘔吐した後ででもあるかのようにさっぱりと無くなってしまったのであった。それでも身体が四散する夢の場合と同様、この異常体験への恐怖心は残った。

 

 

               ★

   

 

時期はそれぞれ異なるがその他にも通常時には見られない意識状態を体験したので記録しておく。どれも一度だけの体験であり現在は同様の体験はない。解釈は読んで下さった方それぞれに任せるしかない。

 

 

●会話している相手が次に何を話すかが分かる

 

これはまだ設計事務所で働いていた時期に、事務所のメンバー(男性社員二人と女性社員が一人、自分はアルバイトであった。後に男性社員がさらに一人入社する。全員ほぼ同年代であり社内の雰囲気はよかった)と昼休みに食事の為に入った店で起きた。皆で談笑していると(自分は離人症状が続いていたが職場では平常を装っていたのである)次に誰かが話そうとするその直前に、あらかじめその内容が分かるのであった。この時は特に驚きもせず、ただそういうものとして受け入れていた。

 

●植物の生命を知覚する体験

 

これも設計事務所での勤務時に起きた。この事務所は所長の邸宅の一階部分であったがトイレには所長の奥さんによって生けられた花が飾られているのが常であった。その日はポピーの花が生けてあった。トイレの扉を開き、ポピーの紅色の花弁を目にした瞬間、驚愕ししばらく目が離せなくなってしまった。例えばだが屋内のトイレの扉を開いた瞬間、そこにいるとは予期しない猫などの動物がいた場合に驚いて体が竦むような経験があると思うが、それと同じことが起きたのである。つまりそこに生けてあるポピーが意識を持ち体温を持つ動物であるかのように知覚されたのであった。

 

私たちが日常的に植物に接する場合、言うまでもないことだが動物と同じようには知覚しておらず、(物語や比喩とは別に)実際に意識があると知覚することはまずないであろう。

 

 

相対性理論を理解した

 

これも設計事務所で起きた。思うに設計事務所に勤務していた時期は発症から間もない時期であり、このような変性意識状態が頻発した時期でもあったのだろうと思う。相対性理論を通常の理性で理解したというよりも、アインシュタインがどのような視覚モデルにおいて相対性理論を理解していたかを理解できたと表現した方が正確かもしれない。その視覚像がイメージで現われ、相対性理論を「手に取るように」理解できたと感じられたが、今となっては記憶がほとんどなく、どのような視覚モデルだったかも思い出せない。

 

 

●同居する親を人格的存在ではなく「生命」として知覚する

 

これはいつ頃の時期だったかよく思い出せない。通常の意識状態において人は家の隣室に人がいるとあらかじめ知っている場合、その気配を意識し、同時にその人物が母であればそのことをも同時に了解して気配を知覚しているが(この辺り表現が難しい。通常であればわざわざ「意識化」しない領域の話であるから)、この時は隣室にいる気配が母であるというよりも、人格をいわば捨象した「生命」であると知覚されたのだった。ちょうど先述のポピーの場合と知覚の質が似ていたように思う。

 

これが幻覚ではないと仮定するのであれば(もとよりそこにない何かが「見えた」わけではないのだが)、人間には人格やポピーなど、名付けられた存在の層のさらに基層にある「生命そのもの」を知覚する能力があるのではないかと思う。さらに言えばこの知覚は意識がそう知覚する、思う、というよりも身体が知覚・感覚していると表現した方が適切であるような体験であった。意識がする通常の知覚ではなく身体感覚(触覚や運動能力とは異なった位相だが)であると表現した方が体験的にしっくり来るのである。

 

(推敲なし・続く)

その17 離人体験について(9)

 

●夢について、続き

 

これまでに書いたような体験を先述のように「形而上的な悪」に触れた体験とすると、一方で短期間ではあるが心身の緊張が解け軽度の恍惚状態を維持していた期間もあり(「法悦的状態」)、次にそれについて書きたいのだが先の天竜川流域での体験は夢についての話題の延長であり、さらに当時の夢について思い出したことがあるのでここで書いておきたい。

 

離人症が発症する少し前から自分の身に何か忌まわしい事が起こるのではないかと不安を抱き、また突然身辺整理の欲求が生じ部屋を片付け始めたことについては既に書いた。その時期に見た夢だ。

 

 

○当時通っていたモダンバレエの稽古場には同じ年齢の社会人女性がおり、仲が悪かったわけではないが一種のライバル関係にあると言ってよかったと思う。しばしば同じ企画に出演もしていたのであった。その彼女をビルの高層階にあるエレベーターの孔から誤って突き落としてしまう夢を見た。エレベーター本体が到着していないまま扉が開いており、どうした事かそこへ彼女を突き落としてしまったのである。孔の下方を覗くが暗闇が見えるだけであり、彼女がどうなったのかは判らない。これはまずいことになったと強い罪悪感と不吉な感覚に見舞われ、夢から醒めた後もこの不吉な感覚が続いた。

 

○当時の自宅のあった敷地近くの公道の地下に這ってやっと前進できるほどの狭い通路が張り巡らされている。上部にはところどころに小さな丸窓があり、地上が見える。

 

どちらも地下と関係する夢であることに何か意味があるのだろうか。ひょっとするとこの夢のうちのどちらかが離人症を発症した当日に見たものであったかもしれない。

 

               

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●「法悦的状態」について

 

先述のようにこれまで書いて来たような症状や体験とは反対に、離人感は継続しているものの短期間ではあるが心身の緊張が解け、寛いだ心境になることもあった。ちょうど春先であり、季節感が心身に直截的に浸透してくる感覚があった。自我と現実感が消失しているだけあって春特有の心身が浮つく感覚に全身を乗っ取られているようで、心身の緊張が解けているとはいえ正常な季節感とはかけ離れており、現実から隔絶されてしまっている不安感や身体各部の硬直化・感覚鈍磨も依然として残っていた(この頃に女性ボーカルの入ったあるボサノヴァの曲をよく聴いていたのだが、その曲は今でも当時の不自然に心身が浮つき落ち着かない感覚 -ひょっとすると性的な感覚と関係があるかもしれない- が思い出され、聴くのが辛い)。

 

風に揺れる木々の枝を眺めていると、これまでよりもゆっくりと、そして細部が明確に見える。そんな時期に音楽を聴いているとしばしば体験したことのないような至福感が訪れたり、音楽に光のようなものを感じたり、全身が特有の(ポジティヴな)ムードに満たされることもあった言語化が難しいが共感覚的な体験でもあった。実はこのあたりの感覚も強度こそ当時のままではないが、今でも音楽を聴いている際に思い出すことがある。ちなみに当時聴いていた音楽は Michael Nyman , Astor Piazzolla , Jaco Pastorius , Weather Report , Milton Nascimento など)。

 

この時期は「形而上的な悪」、世界に遍在する形而上的な邪悪さの気配から解放された感覚があり、また人には労働を含め絶対的な義務などなく、何もせずまた社会と全く関わらずとも生きていてよいのだという観念が生じてきた。これまで自分は自身の内的な欲求からであれ社会通念の影響であれ何事かをしなければならないと強く思って生きてきたのだが、それは固定観念であり真実には人は何もしなくてもよい、労働や自己実現の義務などない、との観念に満たされたのである。

 

こうして書いてみるとそれなりに正当性のある観念のようであり共感する人も少なくないように思えるが、実際には心身が一応は健康な働き盛りの人間が生業を何も持たずに、また社会との関わりを全く断って生きてゆくことは命を絶ちでもしない限り現代社会ではほぼ不可能なのであり、これもまた現実から乖離した、潜在意識的なユートピアの希求であったのではないかと思う(また「形而上的な悪」の体験と同程度に根源的なものとは思えず、幾分表層的な局面のようにも感じられていた)。少なくとも、緊張感が解け寛いだ心身の状態に反して社会的には生きて行くことが困難になることは明白であった。

 

(ただしこのように自分には思えた -妙なことだがこのような観念がいわば宣託のように突然湧き上ってきたというのが実状だが- とはいえ、実際に同様の考えを持ち生き方を模索する行為を否定するつもりは全くない。むしろ当時よりも価値観の多様性が顕在化した現代において、完全には無理であっても可能性の模索は許されるべきだと思っている。また人間にとって絶対的な義務はないという観念は仏教的な文脈では真理であるようにも思う。)

 

当時の自分はこのまま自我と現実感を失ったままで生きていられる手段として、ホームレスとして生きてゆく可能性を考えたのであった。むしろ、現代社会を否定しつつ社会的には廃人と化した自分が依然としてこの現世から逃れられないのであれば、ホームレス以外の生き方はあり得ないのではないかとさえ思えたのであった。丁度この頃は当時働いていた個人経営の設計事務所での契約が切れた時期であり、次の仕事を探さねばならない時期でもあった(無職であった期間は半年ほどであったように思う)。当時同居していた両親との関係は最悪であり、無職のままで家にいることは到底許されることではなかった。

 

(推敲なし・続く)