その7 折角なのでその他の映画についても(2)

9月20日に書いた「その5」で「映画や物語(そして希には現実の場)などで出会う女性(像)に突然惹かれるといった現象はこちらの状態とは無縁に突然起こる。そしてそれが自分の人生における何らかの豊かさに資するものであるかと考えると、かなり疑問なのである(むしろ困難が増す場合がある)。離人症からの回復期には生き延びるための幻想だったのだが、幻想であることに気づいてしまった今となっては必要なものではない。」と書いた。

 

これは自身の内にある女性的な何者か(つまりアニマか)の投影である可能性が大だからであり、また突然始まるということを疑っているのであって、現実において時間をかけて育まれる好意や憧憬、愛情などを否定しているわけではない。言葉が足りなかったように思うので補足しておきます(ただし出会って間もなく互いに惹かれ出すという場合もあるようで、強く否定するだけの確信もないけれども)。

 

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かつて観た映画の中から気に入った、もしくは記憶に残っているものの続き。

 

3.「ABYSS」 監督:ジェームズ・キャメロン

 

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eiga.com

 

これはTVで観たのだと思う(その後VHSで購入)。深海調査隊が深海でトラブルに遭遇し、海底都市に棲息する異生物(宇宙人ならぬ海底人)に出会い助けられるというお話。深海調査艇という閉ざされた空間と広大な深海の対比、そしてやはり異生物との遭遇というモチーフに惹かれたのだと思う。海溝へ転落した主人公が海底人に助けられるシーンに登場する海底都市が美しい。ひょっとして浦島太郎が訪れた竜宮城とはここだったのか(海域が違う)。

 

4.「GATTACA」 監督:アンドリュー・ニコル

 

死ぬ前にこれだけは観ておけ! : Gattaca / ガタカ(97年米)

 

遺伝子により社会的な階層が決定される未来の話。正統派のSFである。ヒロインのユマ・サーマンは周知の通り「Kill Bill」のあの黄色い女性なのだが後に「Kill Bill」を観、その後かなり経ってから同じ女優さんであることを知った。どうでもいい話なのだが以前たまたま観ていたTV番組でダイヤモンド・ユカイさんがユマ・サーマンと交際していたことがあると聞いた時には驚いてしまった。

 

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ところで江角マキコさんやhitomiさんその他日本人である人々には「さん」付けで表記して来たが、海外の女優俳優音楽家に対しては「さん」を付けないのは妙である気はしている(TVのニュースではポール・マッカートニーさん、などと呼んでいるからやはり付けるべきなのだろうか)。存命の人と故人とでも差をつけないのであれば、Albert AylerさんとかJohn Coltraneさんなどと表記せねばならないがさらに妙な気がする。どうすればよいのだろうか。

 

 

その6 折角なのでその他の映画についても(1)

映画鑑賞が趣味であると自覚したことはないのだけれども、地元のレンタルビデオ店で映画を借りひたすら観ていた時期がある(マイナーな作品の在庫が多く今思えばなかなか面白い店だった)。

 

離人症からの回復期の比較的初期の話で、当時四六時中自身の内部を占めていた強度の恐怖感を紛らわすために取った行動であった。もちろん一刻一刻常に恐怖感に責め苛まれている状態なので面白いなどと到底思えない精神状態であり(その癖陰惨なシーンはダイレクトに精神状態に影響するのだ)、しかし恐怖から少しでも気を逸らすには何かをしていなければ気が違いそうなのであった。自分の心(自我)は一体どこへ行ってしまったのか、このまま気が違ってゆくのだろうか、などの恐怖に責め苛まれながらそれらの映画を観た。

 

その中で、すでに紹介した3作のように出演している女性や物語が自分の深いところを揺り動かしたわけではないものの、記憶に残っている作品についても書いておくことにした(つまり通常言われる「好きな映画」。結局そういう流れになる)。先述のような状態で観てはいたものの、不思議と気に入った作品は後々まで覚えていたのである。ちなみに監督や役者についてはほとんど知識がない。順不同。

 

1.Birdyアラン・パーカー監督

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ポスターが美しい。あらすじなどを紹介するのは面倒なので他のblogをリンクさせて頂く。

www.kishimamovie.com

 

上記blogには「重いストーリー」とあるが、人を食ったようなラストシーンは秀逸。しばしば流れる陽気な「ラ・バンバ」もいい。

 

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2.髪結いの亭主パトリス・ルコント監督

atmatome.jp

Toto The Hero」を日比谷シャンテシネに2回、高田馬場へ1回観に行ったと先述したが高田馬場で観たのはこちらだったかも知れない(いずれにせよ「Toto The Hero」は劇場で4回は観た筈。この作品も劇場で観たのは確かで、レンタルで観た作品ではない)。自分にとってはひどく珍奇な物語に思えるのだけれども、なぜか忘れられない作品なのだった。

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主演のジャン・ロシュフォール Jean Rochefort、この人の顔がまたいい。当時も妻役の女優よりも、こちらの顔に惹かれるものがあった。ただしこの一見柔和に見える表情の意味が分かってくると、なかなか怖いものがある。

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Mchael Nymanによる美しい主題曲も作品の印象にかなりの影響を与えていると思う。

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自分の好きな楽曲中でも上位に入る曲。離人症を発症して間もない頃は何かとてつもなく禍々しいところへ落とし込まれたような感覚と共に、希にだが別の機会には俗世を超絶した愉悦の感覚に満たされることもあった(これらの感覚については後に書く)。後者はNymannのこの曲がしばしばそのスイッチになっていたのだが、今聴いてもその感覚の一端を思い出すことができる。

 

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ところでこの2作品はどちらも心を病んでしまった人、そして願望が現実から遊離してしまった人の物語であることに今気がついた。

その5「The Shape Of Water」の Sally Hawkins

相変わらずの宙吊り状態が続く。どうもこれまでよりも現実に近い方向に「着地」するのではないかと思えてきた。内的な領域とのバランスの取り方と言おうか往還が楽に出来ると嬉しいのだが。シュタイナーのような人がその辺りの心の仕組みについて書いていたりしないものだろうか。結局のところ、いまだに現実感を取り戻すための経過の途上なのか。そんなことをしている間に死期が訪れてしまう。

 

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先日、通っている利用者宅で利用者さんと一緒にDVDで「The Shape Of Water」を観た。最近は劇場公開からDVDで発売されるまでの期間が短いらしい。公開されて間もない(半年位?)映画だ。

 

アパシー状態から脱しておらず無感動状態のままこの映画を観ていたのだが、主演の発語障害をもつ女性を演じるサリー・ホーキンス Sally Hawkins から目が離せなくなってしまった。アパシーなのにこういったことが突然起こるので油断が出来ないのだ。冗談ではなく、本当に困る。

 

これまでも書いて来たように、映画や物語(そして希には現実の場)などで出会う女性(像)に突然惹かれるといった現象はこちらの状態とは無縁に突然起こる。そしてそれが自分の人生における何らかの豊かさに資するものであるかと考えると、かなり疑問なのである(むしろ困難が増す場合がある)。離人症からの回復期には生き延びるための幻想だったのだが、幻想であることに気づいてしまった今となっては必要なものではない。

 

もっともこれは自分のかつての傾向への批判であって、当時自分が惹かれていた女性たちが実は自分が思うほどには魅力のある人々ではなかったと言いたい訳ではない。理性と感情の動きは別腹なのである。実際にこう書いている最中でさえ、「The Shape Of Water」に登場するサリー・ホーキンスの姿を見るとまだ胸が高鳴るのを感じる(大分軽くなっては来た)。自分はこういったタイプの女性(像)にも惹かれるのか、と意外な発見でもあった。

 

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トラウマにより発語が出来ない障害をもつ中年女性が掃除婦として勤める研究施設に捕獲されている生物(半魚人?)と心を通わせはじめ…というお話。異種族間同士で惹かれあうといったモチーフも自分の琴線に触れるものがあったかもしれない。ちょっと篠田節子さんの小説「アクアリウム」に通じるものを感じた。

 

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サリー・ホーキンスは地味な中年掃除婦として登場するのだが、それまで表情も乏しかった彼女が怪物と惹かれ合うにつれ表情も豊かになってゆく過程も描写されている。研究施設で怪物に命の危険が迫ることを知った彼女は怪物を脱走させ、自らのアパートで匿ううちに何と裸で抱擁し合う関係にまでなる(!)。同居人に見つかってしまった瞬間の小悪魔的な表情に、女優の演技力への賛嘆と共に女性という存在の怖さと魅力を再認識させられ、息を呑む以外に手立てはないのであった。

 

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ラストは悲劇的な展開だがあることが起こり、美しく終わる。この映画のポスターでサリー・ホーキンスが水中に沈む映像のものがあるが、自分も高校時代に女性が水族館の巨大な水槽に沈んでいる(浮いている)情景のイラストを描いたことがあり、その辺りも琴線に触れる理由かも知れない。また有名なものではこんなレコードジャケットもある。人間には何かこういった光景への憧憬があるのだろうか。

 

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その4 hitomiとユング心理学の「シャドウ」

伯父の納骨式より帰宅(15日)。

 

アパシー状態は相変わらず続いており、心境の奇妙な宙吊り状態が続いている。このblogを開始した理由にはそれなりの切迫感を帯びた情動があったように思うのだが、早くもその感覚が薄らいでしまっている。どうしてこれらの事について書いておかねばならぬと思ったのだろうか…

 

どうも自分が纏まった文章を書ける状態は期間限定らしい。次に訪れるのが何時になるものか分からないので自分自身の記憶の為にも書けるうちに書いておこうと思う。

 

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離人症からの回復期のさ中、歌手のhitomiさんに熱中していた時期がある。それまでほとんど日本のPopsに興味がなかったので、異例の事であった。AERAのような体裁のやや堅めの情報誌の表紙で見かけたのが最初であったと思う。当時の彼女は小室ファミリーを抜ける直前の頃で(しばらく後に小室プロデュースとしては最後のアルバムとなる「déjà-vu」が発売される)、アイドルらしからぬ諦念と闘争心が共存しているかのような当時の表情は自分のその頃の心情に訴えて来るものがあった。

 

あれから随分と時が経ち、現在TVなどでごく希に姿を見かけるとお元気そうで何よりだなあと思う位だがこの頃の曲は今聴いても、いい。当時はAlbert AyrerやJohn Coltraneの曲と一緒にMDに入れて(まだカセットテープ〔!〕だったか)聴いていた。

 

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思うに、離人症発症の少し前から聴き始めたMoonridersといい、何故かそれまで避けてきたジャンルのものに興味が向きはじめており(学生時代はほぼJazz一辺倒であった)、音楽以外の領域でも自身の生きてこなかった別の側面(つまりユング心理学でいう「シャドウ」だろうか)を自覚させられる機会が増えつつあった。それまでほとんど興味も縁もなかった渋谷や六本木などの繁華街への憧憬が募ったりもした。渋谷だったろうかもしくは六本木だったか(忘れた)、hitomiさんのliveを観に行ったこともあった(その頃はすでに小室ファミリーを抜けていた)。しかしその音楽だけに留まらず、まずは女性としてのhitomiさんに熱中していたのである。

 

先述の江角マキコさんといいこの頃のhitomiさんといい、当時惹かれがちであった女性がいわゆるfeminineなタイプではないことが興味深い。思い返せば当時は実生活においてもfeminine系の女性が苦手であった。共通の話題や話のテンポ感、諧謔のツボなどの共通項が見出せず、コミュニケーションに困るのであった。

 

この頃は心情的にも実生活においてももっともどん底の時期であり、対外的にも悔いの残る思い出ばかりなので記憶を掘り返すのはやめておきたい(時期的には社風がまったく自分に合わない測量会社のバイトを辞め、途方に暮れていたところ偶然旧友に再会、友人の仕事を手伝うことで何とか糊口を凌いでいた-実家で暮らしてはいたが-時期であり、友人には感謝している。測量会社で働いていた時期は今思えば異常なことだが、離人症の一番酷い時期が過ぎていたとはいえこれまでで一番忙しく労働をしていたのである)。物書きが自身のいわゆる「黒歴史」を暴露するエッセイを公開していたりするが、自分はさすがにそんな気にならない。他人の「黒歴史」を読むことさえ好まないのだから。

 

(9月15日~9月17日記。推敲が出来ないので後ほどします)