その13 離人体験について(5)

(4)の続き。

 

無限と永遠という観念を恐怖し、さらに発症当時からあった自己と周囲の人々や環境への既知感の喪失もあり、それらの感覚は最終的には宇宙(世界・ありとあらゆるもの)が存在することそのものへの禍々しさ、不吉さの感覚にまで発展した。宇宙が存在するという事実に何か忌まわしい気配が潜んでいるように感覚されて仕方がないのであった。そして自分のみならずありとあらゆるものの存在さえ確信できなくなってしまったのだった。デカルトの結論「我思う、ゆえに我あり」を反芻してみても何の役にも立たないことは明白であった。なぜなら自分の内部で生起している筈の思考さえも自分のものであるといった感覚が消失しており、不穏で親しみのない他者性を帯びていたからである。宇宙的な規模の途方もない禍々しさに触れてしまった感覚がありこのまま狂気に陥って行くのではないかとの恐怖もあったが、むしろ狂気さえも宇宙規模ではあり得べき要素の一つに過ぎず、言い換えるなら宇宙内部の存在(出来事)であることに変わりはなく、いわば逃亡としての狂気さえ原理的に不可能なのだった。

 

 当然のことながら、自分は精神分裂病統合失調症という病名に変更される以前の当時の病名)を発症しているのではないかとの疑いは持った。自分の内部に生起する思考に感じられるよそよそしさは正に分裂病の症状を思わせたし、心理学系の書籍で分裂病を発症した人の経歴を読むとこれまでの自分の経歴にとてもよく似ているように思えて来るのでもあった(ただしここに記してある体験が精神医学的には「妄想」と看做されるだろうことを除いては、幻覚や幻聴と思える体験はなく、また現実からリアリティが失われ夢の方にリアリティがあったとはいえ現実と夢との領域が曖昧になり混同されることもなかった)。

 

しかし精神科医であってもわが国に存在する既成の宗教であってもこの出来事に対応できる人がいるとは到底思えず、ただこの葛藤に晒されている以外に成す術はないのだった(当時のカウンセラーにはすべて話していたのだがカウンセラーは徹底した非指示的態度であり -当時主流だったロジャース派の技法であったと思われる- 「自分は分裂病を発症しているのでしょうか」の問いにも明確な答えを貰えないのが常であり、この態度がさらに自分の不安と疑念 -すでに自分は救いようのないところまで人格が崩壊しているがゆえに何も教えてくれないのではないだろうか- を高じさせるのであった)。ヨガや密教色の強いオウム真理教(当時はまだサリン事件を起こしていなかった)の教祖であればあるいはこの体験の意味が判るのではないかと考えることもあった。

 

発症以前からこのような問いを抱える性質であった訳でもない(思い詰めがちだったのは確かだが)。幾分現実に即した解釈をするなら、離人症とは身体や感情などのあらゆる感覚から「当事者性」が消失している状態ゆえ、その結果当事者性のない形而上的な観念だけがリアルなものとして体験される状態に陥るのかも知れない。通常はよほど意識的に純論理的な思考を巡らせているのでもない限り、思考の道程いずれかの時点で感情や身体感覚の影響を被っていることが多いものだが、その通路を阻まれ理性(観念)の内部のみでの処理を余儀なくされ、恐慌状態に陥るということなのかも知れない。IT関連会社にいた頃に見たアルゴリズムの誤りから暴走を始めたプログラムを彷彿とさせもする。

 

こうして書いて見ると他愛もない、子供じみた恐怖のように読めないでもないし、多くの人々から見ればたわ言か妄想の類でしかないだろうが(実際に妄想の一種ではあろうが)、決して観念(思考)の領域だけに降りかかった出来事ではなかった。これらの葛藤の全てにおいて引き裂かれるような身体的な痛みが伴っていたのである。それは最早恐怖であるのか痛みであるのか判然としない痛苦であり、全身全霊をもって宇宙的規模の葛藤と忌まわしさに直面させられていると感じられた体験であった。

 

 

●体感を伴った悪夢について

 

この頃に見た夢の中で特に記憶に残っているものが二つある。先述のように昼間の生活から現実感は消失しており、(睡眠感のない)就寝時の夢の方にリアリティがある時期に見たもので、どちらも現実には起こりえない内容であるにも関わらず、身体的な感覚を伴っているものだった。

 

○一つ目の夢。闇夜の海上を航海しており周囲は重油のように重く黒く何も見えない。海中から巨大なナメクジのような怪物が現われ、自分は肛門から自分の核となるものを吸い取られてしまう。起床すると自分の中心にある何かが無くなってしまい抜け殻のように感じられ途方に暮れる(すでに自分を喪失している状態であった筈なのに奇妙だが、離人感がさらに強まった感覚があった)。そして肛門と直腸の辺りには怪物から核を抜かれた際の体感が確かに残っているのだった。

 

○二つ目は身体が爆発し四散する夢。これにもリアルな体感が伴っており、起床してみるとやはり自分が無くなってしまった感覚(これ以外に表現しようがない)があった。これは当時訪れた天竜川流域で自給自足の生活をする夫妻のお宅で体験したもので、このお宅を訪れることになった経緯には説明が必要かもしれない。

 

(続く)