その4 hitomiとユング心理学の「シャドウ」

伯父の納骨式より帰宅。

 

アパシー状態は相変わらず続いており、心境の奇妙な宙吊り状態が続いている。このblogを開始した理由にはそれなりの切迫感を帯びた情動があったように思うのだが、早くもその感覚が薄らいでしまっている。どうしてこれらの事について書いておかねばならぬと思ったのだろうか…

 

どうも自分が纏まった文章を書ける状態は期間限定らしい。次に訪れるのが何時になるものか分からないので自分自身の記憶の為にも書けるうちに書いておこうと思う。

 

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離人症からの回復期のさ中、歌手のhitomiさんに熱中していた時期がある。それまでほとんど日本のPopsに興味がなかったので、異例の事であった。AERAのような体裁のやや堅めの情報誌の表紙で見かけたのが最初であったと思う。当時の彼女は小室ファミリーを抜ける直前の頃で(しばらく後に小室プロデュースとしては最後のアルバムとなる「déjà-vu」が発売される)、アイドルらしからぬ諦念と闘争心が共存しているかのような当時の表情は自分のその頃の心情に訴えて来るものがあった。

 

あれから随分と時が経ち、現在TVなどでごく希に姿を見かけるとお元気そうで何よりだなあと思う位だがこの頃の曲は今聴いても、いい。当時はAlbert AyrerやJohn Coltraneの曲と一緒にMDに入れて(まだカセットテープ〔!〕だったか)聴いていた。

 

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思うに、離人症発症の少し前から聴き始めたMoonridersといい、何故かそれまで避けてきたジャンルのものに興味が向きはじめており(学生時代はほぼJazz一辺倒であった)、音楽以外の領域でも自身の生きてこなかった別の側面(つまりユング心理学でいう「シャドウ」だろうか)を自覚させられる機会が増えつつあった。それまでほとんど興味も縁もなかった渋谷や六本木などの繁華街への憧憬が募ったりもした。渋谷だったろうかもしくは六本木だったか(忘れた)、hitomiさんのliveを観に行ったこともあった(その頃はすでに小室ファミリーを抜けていた)。しかしその音楽だけに留まらず、まずは女性としてのhitomiさんに熱中していたのである。

 

先述の江角マキコさんといいこの頃のhitomiさんといい、当時惹かれがちであった女性がいわゆるfeminineなタイプではないことが興味深い。思い返せば当時は実生活においてもfeminine系の女性が苦手であった。共通の話題や話のテンポ感、諧謔のツボなどの共通項が見出せず、コミュニケーションに困るのであった。

 

この頃は心情的にも実生活においてももっともどん底の時期であり、対外的にも悔いの残る思い出ばかりなので記憶を掘り返すのはやめておきたい(時期的には社風がまったく自分に合わない測量会社のバイトを辞め、途方に暮れていたところ偶然旧友に再会、友人の仕事を手伝うことで何とか糊口を凌いでいた-実家で暮らしてはいたが-時期であり、友人には感謝している。測量会社で働いていた時期は今思えば異常なことだが、離人症の一番酷い時期が過ぎていたとはいえこれまでで一番忙しく労働をしていたのである)。物書きが自身のいわゆる「黒歴史」を暴露するエッセイを公開していたりするが、自分はさすがにそんな気にならない。他人の「黒歴史」を読むことさえ好まないのだから。

 

(9月15日~9月17日記。推敲が出来ないので後ほどします)