その9 離人体験について(1)
やっと本題へ。これまでもmixiやtwitterで断片的には書いてきたのだが纏まった形で記録するのはこれが初である。とはいえ20年以上も昔に発症しその後も長期に渡り続いた状態だったため既に忘れかけてしまっていることも少なくない。思い出せる範囲で記録し後から追記することにする。当時の日記を参照すれば発症した日時や状態などもより正確に分かるのだが、資料をそのつど紐解くと書く行為が寸断されてしまうのでとりあえず書き始めることにする。
●いつどのようにして発症したか
20代のある日突然、バスの中で突然発症した。当時自分は大学卒業後に入社したコンピューター関連の会社を辞め(当時まだ「IT関連企業」という呼称はなかったように思う)、祖師ヶ谷大蔵にある個人経営のランドスケープ設計事務所でアルバイトをしていた。夜間は調布市仙川にあるモダンバレエスタジオのレッスンに週のうち数日通っており、小田急線の成城学園前駅からバスで通うのが常であった。当時は大学を出て間もなく、自分の将来などについて何かと迷いの多い時期でもあり、精神状態も不安定になりがちで発症の下地はあったのだと思う。実際に子供の頃から神経症的な不安や葛藤、落ち込み状態に陥ることはしばしばあったが、当時はそれまでとは違った感触の不安に見舞われたり妙な夢を見ることが増えており、自分の身に得体の知れない危機が迫っているという予感じみたものもあったように思う。
この日もバスの中で不安や葛藤を抱えていたのだと思う。ひょっとしたらそれまでも電車の中などでしばしば見舞われていたように、形容し難い強い不安感(今でいう「パニック障害」に似ているかも知れない)がこみ上げて来たのかも知れない。目を瞑っている状態から目を開いた瞬間、周囲の風景が露出をオーバーした写真のように真っ白になり、その瞬間から「外界を生きている自分」と「内部からそれを見ている自分」が分断されてしまったのだった。外界のリアリティが失われてしまい、どこか違う場所にいる自分が両目のモニターより外界を眺めているかのような状態になり、身体の感覚も妙であった。
その時に思ったことはやはりか、遂にか、といったことであった。先述のようにしばらく前から妙な状態が続いていたこともあり、また何よりも幼少期から自分には何かおかしなところがあり、いつかはとんでもない事が起こるのではないかという漠然とした不安が常にあった。
今思えば妙なことだが、それでも自分はそのまま仙川のレッスン場へ行きレッスンを受けて帰って来たのだった。このまま帰宅しても強い恐怖感とともに自室で途方に暮れているだけになるので、せめて人のいる空間へということもあったのかも知れない。その時点では「離人症」と呼ばれる症状があることを知らなかったし、また後にそれを知っても精神科を受診する気持ちが起きなかったのだった。
その日の晩であったか、後日であったか、同じレッスン場へ通う福祉関係の職種に就く女性(当時しばしば舞台作品に出させて貰っていたパフォーマーのパートナーであり、よく行動を共にしていた)に知人が精神分析を受けている旨の話を聞いたことがあったので、自分も精神分析を受けたいのだが紹介しては貰えないだろうかと電話をした。普段から懇意にしていたとはいえ、知人のパートナーであるし重い相談を持ちかけられるような関係ではなかったので上記の状態については話さなかった。今思えば本来であればまずは精神科を受診すべきであっただろうが、これは精神科の領域ではなくいわば魂や霊と呼ばれるものの領域の問題であろうと思っており、精神医療ではない別のものに関わりたいという気持ちが強かったのだ。
(続く)
その8 折角なのでその他の映画についても(3)
その他、番外編。
「洲崎パラダイス 赤信号」 監督:川島雄三
「こころ」 監督:市川崑
mogamiya-forth.cocolog-nifty.com
どちらも比較的最近、動画サイトで観た。「洲崎パラダイス 赤信号」は元々は以前仕事で通っていたお宅が江東区の旧洲崎町の近くにあり、そのことから洲崎町について調べていた時期に知った映画だ。ジャンルのよく分からない不思議な挿入曲がいい。
「こころ」は言うまでもなく夏目漱石の名作。元々漱石のこの作品が好きで、これもたまたま動画サイトで見つけたのだが先生の妻役の女優が偶然にも「洲崎パラダイス」主演の新珠三千代さんであった。一方は水商売の女性、一方は貞淑な妻と対照的な役を演じているのが面白い。また「こころ」で自死してしまう生真面目な学生K役の三橋達也さんが「洲崎」では新珠さんに翻弄される優柔不断な連れを演じているのも面白い。この2作で新珠さんのファンになった。
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以下さらに番外。渋谷の劇場で観たルイス・ブニュエル監督メキシコ版「嵐が丘」(メキシコの荒地の風景が意外にも原作のイメージに合う)。タルコフスキーによる古典SF映画「惑星ソラリス」(VHSで)。その他にG.マルケスの小説を映画化した「予告された殺人の記録」(VHS)はもう一度観たい。単館上映時に観に行った「マルメロの陽光」はほとんどドキュメンタリーで時間も長く、正直なところ退屈であったが何故か忘れられない。三軒茶屋の古い映画館で観たスティーヴン・ソダーバーグ監督「KAFKA 迷宮の悪夢」。
突然カラーになる後半部は陳腐なホラーでがっかりしたのだが、モノクロの前半はプラハの風景が美しく、カフカ役の俳優もよく、前半部分だけのためにDVDを購入してもよいと思うほど。
レンタルVHSではかつて沈没した豪華客船内でクルーや乗客が生存しており(海水から酸素を抽出する装置を開発したらしい)階級社会化しているというシリアスだが珍作「ゴライアス号の奇跡」(レンタル店に上下巻の上巻しか在庫がなく結末が分からない!)イザベル・アジャーニがエミリ・ブロンテを演じる「ブロンテ姉妹」。「ガープの世界」と「ホテル・ニューハンプシャー」は小説の方がよかった。「トゥルーマン・ショー」も面白かったがこれは筒井さんの小説が元のネタなのではないかと思った。「フィツカラルド」は話の内容がさっぱりわからなかったので記憶に残っているというありさまだ(Amazonのレビューでは軒並み高評価だが前半が退屈らしい。多分自分もそこで断念した)。レンタルで観た作品はまだあるが思い出せないのでここまでにする(当時の日記には記録してある)。
こう振り返ってみると、少し前まで上映されていたアメリカの詩人エミリ・ディキンスンの映画(「静かなる情熱 エミリ・ディキンスン」)も新百合ヶ丘の映画館で上映していたので、観に行っておくべきであった。
「私の人生は終わる前に二度終わっている」───
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ところで先述した「Toto The Hero」がデビュー作であるジャコ・ヴァン・ドルマル監督による「Mr.Nobody」は観ていないのだが気になる。
人生の岐路において選択されなかった別の人生が主題のようで、ストーリーを参照すると「Toto The Hero」で描写された「人の一生」をさらに発展させたものと言えそうだ。「Toto」でもすでにストーリー展開の上手さは際立っていたので、評価が高いのも頷ける。これはいつか観る機会があるかも知れない。
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映画についてのトピックはこれで終わり。やっと離人症体験について書くことが出来る。
その7 折角なのでその他の映画についても(2)
9月20日に書いた「その5」で「映画や物語(そして希には現実の場)などで出会う女性(像)に突然惹かれるといった現象はこちらの状態とは無縁に突然起こる。そしてそれが自分の人生における何らかの豊かさに資するものであるかと考えると、かなり疑問なのである(むしろ困難が増す場合がある)。離人症からの回復期には生き延びるための幻想だったのだが、幻想であることに気づいてしまった今となっては必要なものではない。」と書いた。
これは自身の内にある女性的な何者か(つまりアニマか)の投影である可能性が大だからであり、また突然始まるということを疑っているのであって、現実において時間をかけて育まれる好意や憧憬、愛情などを否定しているわけではない。言葉が足りなかったように思うので補足しておきます(ただし出会って間もなく互いに惹かれ出すという場合もあるようで、強く否定するだけの確信もないけれども)。
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かつて観た映画の中から気に入った、もしくは記憶に残っているものの続き。
3.「ABYSS」 監督:ジェームズ・キャメロン
これはTVで観たのだと思う(その後VHSで購入)。深海調査隊が深海でトラブルに遭遇し、海底都市に棲息する異生物(宇宙人ならぬ海底人)に出会い助けられるというお話。深海調査艇という閉ざされた空間と広大な深海の対比、そしてやはり異生物との遭遇というモチーフに惹かれたのだと思う。海溝へ転落した主人公が海底人に助けられるシーンに登場する海底都市が美しい。ひょっとして浦島太郎が訪れた竜宮城とはここだったのか(海域が違う)。
4.「GATTACA」 監督:アンドリュー・ニコル
死ぬ前にこれだけは観ておけ! : Gattaca / ガタカ(97年米)
遺伝子により社会的な階層が決定される未来の話。正統派のSFである。ヒロインのユマ・サーマンは周知の通り「Kill Bill」のあの黄色い女性なのだが後に「Kill Bill」を観、その後かなり経ってから同じ女優さんであることを知った。どうでもいい話なのだが以前たまたま観ていたTV番組でダイアモンド・ユカイさんがユマ・サーマンと交際していたことがあると聞いた時には驚いてしまった。
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ところで江角マキコさんやhitomiさんその他日本人である人々には「さん」付けで表記して来たが、海外の女優俳優音楽家に対しては「さん」を付けないのは妙である気はしている(TVのニュースではポール・マッカートニーさん、などと呼んでいるからやはり付けるべきなのだろうか)。存命の人と故人にも差をつけないのであれば Albert AylerさんとかJohn Coltraneさんなどと表記せねばならないがさらに妙な気がする。どうすればよいのだろうか。
その6 折角なのでその他の映画についても(1)
映画鑑賞が趣味であると自覚したことはないのだけれども、地元のレンタルビデオ店で映画を借りひたすら観ていた時期がある(マイナーな作品の在庫が多く今思えばなかなか面白い店だった)。
離人症からの回復期の比較的初期の話で、当時四六時中自身の内部を占めていた強度の恐怖感を紛らわすために取った行動であった。もちろん一刻一刻常に恐怖感に責め苛まれている状態なので面白いなどと到底思えない精神状態であり(その癖陰惨なシーンはダイレクトに精神状態に影響するのだ)、しかし恐怖から少しでも気を逸らすには何かをしていなければ気が違いそうなのであった。自分の心(自我)は一体どこへ行ってしまったのか、このまま気が違ってゆくのだろうか、などの恐怖に責め苛まれながらそれらの映画を観た。
その中で、すでに紹介した3作のように出演している女性や物語が自分の深いところを揺り動かしたわけではないものの、記憶に残っている作品についても書いておくことにした(つまり通常言われる「好きな映画」。結局そういう流れになる)。先述のような状態で観てはいたものの、不思議と気に入った作品は後々まで覚えていたのである。ちなみに監督や役者についてはほとんど知識がない。順不同。
ポスターが美しい。あらすじなどを紹介するのは面倒なので他のblogをリンクさせて頂く。
上記blogには「重いストーリー」とあるが、人を食ったようなラストシーンは秀逸。しばしば流れる陽気な「ラ・バンバ」もいい。
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「Toto The Hero」を日比谷シャンテシネに2回、高田馬場へ1回観に行ったと先述したが高田馬場で観たのはこちらだったかも知れない(いずれにせよ「Toto The Hero」は劇場で4回は観た筈。この作品も劇場で観たのは確かで、レンタルで観た作品ではない)。自分にとってはひどく珍奇な物語に思えるのだけれども、なぜか忘れられない作品なのだった。
主演のジャン・ロシュフォール Jean Rochefort、この人の顔がまたいい。当時も妻役の女優よりも、こちらの顔に惹かれるものがあった。ただしこの一見柔和に見える表情の意味が分かってくると、なかなか怖いものがある。
Mchael Nymanによる美しい主題曲も作品の印象にかなりの影響を与えていると思う。
自分の好きな楽曲中でも上位に入る曲。離人症を発症して間もない頃は何かとてつもなく禍々しいところへ落とし込まれたような感覚と共に、希にだが別の機会には俗世を超絶した愉悦の感覚に満たされることもあった(これらの感覚については後に書く)。後者はNymannのこの曲がしばしばそのスイッチになっていたのだが、今聴いてもその感覚の一端を思い出すことができる。
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ところでこの2作品はどちらも心を病んでしまった人、そして願望が現実から遊離してしまった人の物語であることに今気がついた。