その16 離人体験について(8)

 

(6)でTwillogへのリンクを貼ったのだが、張り忘れがあったのでここに貼っておくことにする(三千代さん宅の残りの写真をツイートしている)。

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●余談

 

話の流れを簡単にするためにこれまで書いてきたような体験を仮に「形而上的な悪」に触れた体験と名付けておくことにする。その反対に「法悦的状態」とこれも自分が仮に(このblogを書くために)名付けた心身の状態が続くこともあり、次にそれについても記録しておこうと思うが、こうしてblogを書いているうちに当初予期していなかった事を思い出したり、新たな疑問が生じたりしている。その一つは、自分はいつから現代社会に見切りをつけ隠棲を志向するようになったのかという疑問である。少なくとも学生時代には極端な隠棲志向はなかったように思うのだ(ただし自分の大学生活自体が実社会から隔絶された一種の隠棲のようなものではあったので、隠棲への志向を自覚せずに済んでいた可能性は大いにある)。予定していた話題から大幅に逸れるがこのことについて少しだけ考えてみたい。

 

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行政の方針として年金の納税義務が20歳からになった(平成3年4月かららしい。それまでは任意加入)時点で、その年齢で学生であった場合、建前上は無収入であると看做される筈であるのに(実際にはアルバイトをしている学生は多かったとはいえ)と行政に対する不信感が強く生じたことはよく覚えている。またバブルの恩恵は自分自身も受けていたとはいえ(メジャーなものだけではなくアンダーグラウンドな音楽や演劇・アートなどの活動も活発化していた)、バブル期の世間の浮ついた空気にも同調できない気持ちは確かにあった。

 

また離人症発症前に就職したコンピューター関連会社でも、これは自分の考える「労働」とは違うと思ったことも覚えている。自動車や電化製品などが壊れる以前の買い替えを前提として開発・購買されていることや、本来自然物であるはずの土地に高い値段がつくことにも強い疑問を持っており、その後世の中に新奇な商品を増やす仕事、生活に必ずしも必要ではない商品(情報などを含む)を売る仕事、広告などの仕事(バブル期には花形職業であったが)には就きたくないとも思っていたのだった(バブル期には社会におけるこのような傾向が特に強まり、また社会の趨勢に乗ることの出来ない性質-例えば“ネクラ”などと言う流行語があった-を揶揄する傾向も甚だしく、自分にはそれらへの反発心が強くあったのだった。もっとも好き嫌いとは別にそれらの業界に就くだけの適性がそもそもあったとも思えないが)。

 

ではどのような職業に就けばよいのかと考えると、自分自身の資質を省みてもほとんど思い浮かぶものがなく(これは今思えば自分の社会経験と想像力が貧弱であったゆえだが)、困惑してしまうのであった。当時専念していたモダンバレエや舞踏などの表現活動で生計を立てられることが理想ではあったものの、その才能にも欠けていることは明白であった。

 

元々このジャンルでは著名な人であっても生計を立てるのは容易ではなく、地方や郊外で農作業を営みながら活動をしている共同体的な舞踏集団(田中泯さんの舞塾など)が存在したことがそのような生活に憧れを持った切っ掛けではあったと思う。またサリン事件を起こす以前のオウム真理教についても、入信しようとまでは思わないものの社会から距離を置き修行に専念するその姿勢には共感的でもあった(同時にあまり清潔とは思えない合宿所や教団全体に漂う安っぽい雰囲気に胡散臭さも感じてはいた)。それらの下地があり、後に離人症を発症し社会的な自己実現の可能性をほぼ完全に断たれたことがさらに隠棲志向を強める切っ掛けになったように思う。

 

これらの事は、後に書く離人症の回復期に出会った現在の生業(障害者の介助)との出会いとも関係してくる。

 

(推敲なし・続く)

その15 離人体験について(7)

天竜川流域(長野県下伊那郡の山中)で自給自足生活を営む夫妻を訪れたこと(続き)

 

三千代さん夫妻が二人だけで何年もかけて建てたという立派な和風家屋は山の傾斜地にある僅かな平坦地に建てられており、隣には別棟の風呂場、そして移住してきた当初住んでいたという小さな家屋があった。水は湧水をやはり自分達で引いて来、電気も通っており意外な事にテレビもあった。米以外のほとんどの食料は川で捕れる魚や畑の作物、山中で採れるもので自給しており(蜂蜜を採るための養蜂箱もあった)、時に採れる蛇や松茸などで現金を得ることもあり、物々交換をすることもある様だった。

 

到着した日の晩にご主人から日本酒を振舞われ(某酒造会社から直接買っているという添加物なしのもので驚くほど美味であった)、この地での生活の話やご主人が興味を持つ東洋医学代替医療)などの話も聞いたように思う(なにしろ離人感が酷く話の内容が記憶に残っていないのだ)。その流れで一言、ご主人が発した言葉があった。

 

「今の文明社会はね、すべて間違っているんだよ」

先述のように自分にもすでに現代社会への疑念が生じていたこともあり、また常に己や己の運命、そして世界のすべてに不穏な気配を感覚していたこともありこの言葉が自分にとっての決定的な宣託のように響いたのだった(数年前であれば極端な意見であると思ったであろう)。そして不吉な予感と共に思ったのである。自分はこの言葉を聞くためにここへ来たのではないかと。

 

三千代さんは自分のために大きな蚊帳を吊ってくれ、夫妻は隣の小さな家屋に移動していった(どうやら寝室として利用しているらしかった)。真夏であり窓などはほとんど開け放たれており、自分の住んでいる地域では見ないような大きな蛾やその他の多くの虫が蚊帳の外に止まっていた。飲み過ぎたのか気分が悪く、先ほどの言葉を聞いたことによる葛藤、そして相変わらずの覚醒時と就寝時の意識の差異が失せた状態がある中でそれは起こった。突然身体が破裂し四方へ飛び散るリアルな感覚に見舞われたのであった(破裂時に光を見たようでもある)。自分が自分であるという感覚がさらに失われたように感じられ、恐怖と絶望の中でまんじりともせずに夜明けを待つしかなかった。自分がここへ導かれたのだとするならば、この出来事は必然であり自分は完膚なきまでに精神を破壊され、行き着く先は気が違うか自分で命を絶つ運命なのではないだろうか。

 

 

さすがにこれは病院へ駆け込むべきだろうかとも思ったが、いずれにせよまずは山を降りねばならず直ぐに病院へ辿り着けるわけでもない。さらに言えばどのようにこの恐怖を訴えればよいのかも判らない(このような場合に人事不省に陥るなり、気絶するなり、半狂乱の状態に陥るなど出来れば外観的には何らかの異常事態が起きていることが分かるのだろうが、どれほど異常な体験に見舞われようが意識と判断力は明瞭なままであるのが常であり、残忍な拷問を受けながらも失神することの許されない虜囚のようであった)。いずれにせよ予定よりも早く東京へ帰ることに決め、強まった離人感と不安感を抱いたままその日は万古川(天竜川の支流)でご主人の投網に同行した。

 

周辺に住んでいるのは三千代さん夫妻の他は川近くに住んでいる男性だけであり、河川敷に人の痕跡はなく大きな鹿の足跡などが残っていたりする。周囲を森と崖に囲まれたほとんど人跡未踏のような河川敷に持参したカメラを向けながら(せっかく訪れたので写真は撮っておこうと思ったのだ)時に洲の上に立つ自分の足を眺め、自分はこれからどうなって行くのだろうか、自分が自分であるという感覚は取り戻せるのだろうか、現実感は戻るのだろうか、この後いつまでもこの状態が変わらず生き続けるのだろうか、などと途方に暮れたことを思い出す。

 

                   ★

 

結局その次の日かさらにその次の日に東京へ帰るのだが、三千代さん宅に出入りしていた山の犬(かつて誰かに飼われていたものが野生化したらしい)に道案内をされ山を下ったことは以前mixiにも書いたことがあり先の記事(6)でTwillogをリンクした先にもその犬の写真が残っている。

 

こうして書いてみると散々な訪問だったように響くがこのように山中で自給自足生活をする夫妻やその家屋、天竜川流域の自然を訪れた経験はいまだに自分にとって貴重なものであり後悔はまったくしていない。また訪れたいとさえ思っているのだ(本当は農作業の合間のおやつ時に頂いた三千代さん手製のケーキについても書き残しておきたかった)。

 

後日談として、自分のこの訪問がきっかけとなり母と三千代さんは再び手紙や電話で交流するようになり(季節になると山で採れるもの -ときに大きな松茸だったりもする- を実家に送ってくれたりもしている)、かなり後になりついに自分の実家で母や伯母たちと三千代さんの再会が実現した(その頃自分はすでに独り暮らしをしていたので実家へ行き自分も再会した。その後ご主人は亡くなったと聞く)。

 

 

(推敲なし・続く)

その14 離人体験について(6)

 

 天竜川流域(長野県下伊那郡の山中)で自給自足生活を営む夫妻を訪れたこと

 

身体が爆発し四散する体感を伴った夢について、その状況を書いておくことが必要であるように思うのでやや長くなるが書くことにした。

 

このお宅を訪ねた話は以前ツイートしたことがある(この文章の最後にTwillogのリンクを貼っておく。天竜川や山中の風景、夫妻が二人で長年かけて建てた家屋の写真もある)。ツイートしている内容が正しければ離人症を発症し数ヵ月後に訪れたことになる。

 

当時母とはほとんどまともな会話がなかったのだが、何の拍子にか母の旧い知人に山中で自給自足の生活をしている人がいることを知った。三千代さんという女性であった。三千代さんは自分が小学生の頃に一度、一人で当時の自宅を訪れてきたことがあるそうだ(自分は会っていない)。いかにも山中生活者のようないでたちで訪ねて来、荒縄をベルトの代わりにしていたという。それまで母から聞いたことのない話だった。

 

当時の自分には消費社会から距離を置きたいという願望があり(学生時代にそのような自覚はなく、どうも離人症発症の少し前あたりからそのような思いを持ち始めたように思うのだが)、自分のように廃人同然となってしまった人間、もしくは現代の社会とは別の価値観を持った人間でも安心して暮らせる場所もしくは共同体を希求する気持ちがあった(そのことから当時のオウム真理教のように社会に背を向け -今となっては必ずしも構成員の全てがそうではなかったと言わねばならないが- 共同生活する団体には淡い期待を抱いていたのであった)。このことについては後に書く。

 

今思えば、この時期にそのような知り合いがいることを知らされたのも不思議な巡りあわせであった。自分は最後の望みに賭けるようにして仕事の帰りに新宿の紀伊国屋書店の地下に立ち寄り、その夫妻が暮らすという下伊那郡白地図を買い求めた(当然離人症状は継続している)。夫妻の住処には電話もないということであったので、予告もなく突然訪ねるより他に手段はないようだった。

 

詳細は下のTwillogに譲るが、飯田線為栗(してぐり)駅(単線の無人駅)に到着し白地図の山中に二軒ほど書き込まれている民家らしき場所を目指し中途で方角に不安を感じ引き返し、しばらく途方に暮れていたところ偶然為栗駅の線路を越えた対面にただ一軒だけある民家のご家族が帰宅したのであった。事情を話すと三千代さんとは面識があり、彼女の家には数週間前に電話が入ったとのことで(今思えばこれも偶然である)、連絡をして下さったのである。

 

為栗駅は確かに三千代さんの住処の最寄で間違いではなかったが(自分が目指した方角とは全く違う場所であった)日も暮れかけており、迎えに来てもらうことは困難なので一つ手前の平岡駅へ戻り駅近くの旅館に泊まり、次の朝再び為栗駅で待っていると美千代さんが背中に荷物を背負った姿で現われた。旧い友人の息子とはいえ突然面識のない若者が理由もはっきりと告げぬまま訪れて来、さぞかし面食らったことと思う。

 

かなり後に母から聞いた話では、三千代さんは小笠原出身で家族と共に母の出身である下北沢の実家(豆腐屋であった)の向かいのアパートに越して来ており、母の兄姉達とも仲が良かったようだ。特に母の兄(つまり私の伯父 -先日亡くなった-)は三千代さんに好意を持っていたのではないかという。

 

(確かに、自分が三千代さんの住処に案内された後、さまざまな話をする中で「ヤスタカさん(伯父の名)は変わらずお元気なのかしら」と訊かれるということがあった。さらに先日、亡くなった伯父の遺品から伯父の撮った -伯父は若い頃日大の写真学科に在籍していた- 三千代さんの写真が出てきたりしないだろうか、と戯れに母に訊くと驚いたことに、母が持っているとのことだった。ただし探さねば出てこないらしい)。

 

三千代さんは移住した東京で年齢の離れた工場経営者の男性と知り合い(男性には妻子があったが別れ)、下伊那郡の山中で二人きりの自給自足生活を始めることになる。男性つまりご主人の方に当時の国内外のオルタナティヴな潮流(ヒッピームーブメントや自然農法、東洋医学など)の影響があるのは確かなように自分には見受けられたが、年齢を考えてもかなり先鋭的な生き方を選択したものだと思う。

 

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(推敲なし・続く) 

その13 離人体験について(5)

(4)の続き。

 

無限と永遠という観念を恐怖し、さらに発症当時からあった自己と周囲の人々や環境への既知感の喪失もあり、それらの感覚は最終的には宇宙(世界・ありとあらゆるもの)が存在することそのものへの禍々しさ、不吉さの感覚にまで発展した。宇宙が存在するという事実に何か忌まわしい気配が潜んでいるように感覚されて仕方がないのであった。そして自分のみならずありとあらゆるものの存在さえ確信できなくなってしまったのだった。デカルトの結論「我思う、ゆえに我あり」を反芻してみても何の役にも立たないことは明白であった。なぜなら自分の内部で生起している筈の思考さえも自分のものであるといった感覚が消失しており、不穏で親しみのない他者性を帯びていたからである。宇宙的な規模の途方もない禍々しさに触れてしまった感覚がありこのまま狂気に陥って行くのではないかとの恐怖もあったが、むしろ狂気さえも宇宙規模ではあり得べき要素の一つに過ぎず、言い換えるなら宇宙内部の存在(出来事)であることに変わりはなく、いわば逃亡としての狂気さえ原理的に不可能なのだった。

 

 当然のことながら、自分は精神分裂病統合失調症という病名に変更される以前の当時の病名)を発症しているのではないかとの疑いは持った。自分の内部に生起する思考に感じられるよそよそしさは正に分裂病の症状を思わせたし、心理学系の書籍で分裂病を発症した人の経歴を読むとこれまでの自分の経歴にとてもよく似ているように思えて来るのでもあった(ただしここに記してある体験が精神医学的には「妄想」と看做されるだろうことを除いては、幻覚や幻聴と思える体験はなく、また現実からリアリティが失われ夢の方にリアリティがあったとはいえ現実と夢との領域が曖昧になり混同されることもなかった)。

 

しかし精神科医であってもわが国に存在する既成の宗教であってもこの出来事に対応できる人がいるとは到底思えず、ただこの葛藤に晒されている以外に成す術はないのだった(当時のカウンセラーにはすべて話していたのだがカウンセラーは徹底した非指示的態度であり -当時主流だったロジャース派の技法であったと思われる- 「自分は分裂病を発症しているのでしょうか」の問いにも明確な答えを貰えないのが常であり、この態度がさらに自分の不安と疑念 -すでに自分は救いようのないところまで人格が崩壊しているがゆえに何も教えてくれないのではないだろうか- を高じさせるのであった)。ヨガや密教色の強いオウム真理教(当時はまだサリン事件を起こしていなかった)の教祖であればあるいはこの体験の意味が判るのではないかと考えることもあった。

 

発症以前からこのような問いを抱える性質であった訳でもない(思い詰めがちだったのは確かだが)。幾分現実に即した解釈をするなら、離人症とは身体や感情などのあらゆる感覚から「当事者性」が消失している状態ゆえ、その結果当事者性のない形而上的な観念だけがリアルなものとして体験される状態に陥るのかも知れない。通常はよほど意識的に純論理的な思考を巡らせているのでもない限り、思考の道程いずれかの時点で感情や身体感覚の影響を被っていることが多いものだが、その通路を阻まれ理性(観念)の内部のみでの処理を余儀なくされ、恐慌状態に陥るということなのかも知れない。IT関連会社にいた頃に見たアルゴリズムの誤りから暴走を始めたプログラムを彷彿とさせもする。

 

こうして書いて見ると他愛もない、子供じみた恐怖のように読めないでもないし、多くの人々から見ればたわ言か妄想の類でしかないだろうが(実際に妄想の一種ではあろうが)、決して観念(思考)の領域だけに降りかかった出来事ではなかった。これらの葛藤の全てにおいて引き裂かれるような身体的な痛みが伴っていたのである。それは最早恐怖であるのか痛みであるのか判然としない痛苦であり、全身全霊をもって宇宙的規模の葛藤と忌まわしさに直面させられていると感じられた体験であった。

 

 

●体感を伴った悪夢について

 

この頃に見た夢の中で特に記憶に残っているものが二つある。先述のように昼間の生活から現実感は消失しており、(睡眠感のない)就寝時の夢の方にリアリティがある時期に見たもので、どちらも現実には起こりえない内容であるにも関わらず、身体的な感覚を伴っているものだった。

 

○一つ目の夢。闇夜の海上を航海しており周囲は重油のように重く黒く何も見えない。海中から巨大なナメクジのような怪物が現われ、自分は肛門から自分の核となるものを吸い取られてしまう。起床すると自分の中心にある何かが無くなってしまい抜け殻のように感じられ途方に暮れる(すでに自分を喪失している状態であった筈なのに奇妙だが、離人感がさらに強まった感覚があった)。そして肛門と直腸の辺りには怪物から核を抜かれた際の体感が確かに残っているのだった。

 

○二つ目は身体が爆発し四散する夢。これにもリアルな体感が伴っており、起床してみるとやはり自分が無くなってしまった感覚(これ以外に表現しようがない)があった。これは当時訪れた天竜川流域で自給自足の生活をする夫妻のお宅で体験したもので、このお宅を訪れることになった経緯には説明が必要かもしれない。

 

(続く)